真昼の月







暦の上では、夏はとっくに終わったとはいえ、まだまだ熱い初秋の屋上。
学校に来ている形跡はあるのに、何故か一日姿の見当たらない仁王を探して覗いてみると、
ぼおっと空を眺める仁王がそこにいた。


俺達がどれだけ心配していたと思うのか、とか
そもそも朝練どころか授業にも出ずこんなところで何をしている、とか
仁王を探しながら、もしサボったりしているのならばどの様に対処しようかとずっと考えていたのだが
そんな思考が吹っ飛んでしまうくらいには、そこに立たずんでいた人間から生気は感じられなかった。



顔には何の感情も浮かべず
くだらない嘘をついては周囲を欺く唇は、硬く閉じられていて
コートの上を縦横無尽に走り回るバランスの取れた体は、何故か妙に細く感じられる。

その儚げな印象が俺には妙に空恐ろしく感じられ、仁王をこのままにしておけば
この何処までも青く澄んだ空に溶けてしまうのではないかとそんな危惧さえ抱いてしまうほどだった。



そんなはずはないのに。馬鹿馬鹿しい。




自分の中に湧き上がってきた考えを、一蹴するかのごとく軽く頭を振り俺は仁王の元へゆっくりと歩みを進めていく。


普段は人の気配に敏感な仁王がこちらを振り返ることも無く空を眺めている。
それは神へ無心に祈る、信仰者の姿にも似ていて
俺は何故か目の前の光景に切なさを覚え、胸がツキンと痛んだ。


「そこで何をしている?」
「別に何も」


仁王はそう答えるとまた空を見上げた。

何を考えているのか、そもそも何か考えているのか全く判別の付かない真っ白な顔。


俺のことを本当に認識しているのか怪しい瞳。


無防備なようでいて、その実全身で全てのものを拒絶している躯。


よく見知ったはずの人間が、何故か全くの別人に見える。

彼が何を考え、何を感じているのかを知りたいと心底望む瞬間だ。
仁王はこうして時々"遠く"へ行ってしまう。





彼の気持ちが理解できない。彼の感情を理解できない。彼を理解する事が出来ない。






柳生のように誰よりも仁王の近くにいるわけでもなく


蓮二のように、聡いわけでもなく


丸井のように無邪気に関わっていく事も出来ず


ジャッカルのように全てを柔らかく受け止める事も出来なければ


幸村のように、全ての壁を躊躇も無く壊す事も出来ない。




そんな俺が、それでも彼の側に居たいと願うのは、きっと傲慢な事なのだろう。





彼のことが分からなくて寂しくて、もどかしいのは俺が仁王に俺のことを知って欲しいからだ。

俺が仁王を望む様に、仁王に俺を望んで欲しいからだ。


あぁ、俺は何時の間にこんなに欲深くなってしまったのだろうか。
綺麗な彼への思いは時が経つにつれ暗く深い欲望へと変貌してしまった。


きっとこの気持ちは彼を怯えさせ、汚してしまう。




絶対に知られてはならない



彼にだけは知られたくない



彼のことを理解したいと思うくせに、自分のことは知られたくないだなんて
呆れるほど矛盾した、俺の気持ち。
吐き気がするほどの強いエゴイズム。





こんな気持ちを抱えたまま近づいてはならない様な気がして仁王の元まで後数歩というところで、
俺は足を止めて、空を仰ぎ見た。


仁王は今何処を見ているのだろうか?


何を見ているのだろうか?


そんな事を考えながら、空を眺めていると仁王がふいに口を開いた。


「なぁ、真田。何が見える?」


常に無く穏やかな声が、俺の中に染み渡る。
それと同時に俺のこの身に抱える想いを全て彼に見透かされているような気がして
瞬時に恐ろしくなり、
俺は空を見上げながら全てのものを拒絶するように静かにゆっくりと目を閉じた。


「‥‥‥何も。俺には何も見えない」

「そっか」

相変わらず仁王は空を眺めたまま、抜け殻のような雰囲気を漂わせそこに佇んでいる。

何も見えない。

青い空に浮かぶ真っ白な真昼の月のようにぼんやりと、ただ、そこに居ることが分かるだけ。

光ることを忘れたかのように、ひっそりとそこに存在する。



きっかけなど思い出せない。
あの鮮やかな銀の髪の行方を気が付いたら目で追っていて


仁王が何を考えているのかも、どうしたいのかも理解出来ぬまま焦がれ続ける。
何処まで行っても全てが一方通行のままで
彼を思う気持ちはいつも絶望と隣りあわせだ。


人間がどんなに手を伸ばしても月に届く事がないように、
俺がどんなに手を伸ばしても仁王に届く日など永遠に来ないのだ。



抜け殻のような体でも綺麗なまんまの仁王に、俺の欲望にまみれた手を伸ばすそのこと自体が、
大きな罪のような気さえする。



そこまで考えて俺は密かに苦笑を漏らす。




仁王に理解されることを己で拒んでおきながらまだ手を伸ばそうというのか。
あぁ、己の矮小さが腹立たしい。




「仁王には、何か見えるのか?」


それでも仁王に憧れ続けるこの身は、滑稽にも彼を探し求めるのだ。


「俺にも何も見えんよ。何でなんじゃろうな。真田なんでか分かる?」

「お前に分からないものが俺に分かるはず無いだろう」

「うん。そう言うと思った」

「そうか」


視線を交わらせる事も無く、淡々と二人だけのときが過ぎていく。


この静かな時間とは不似合いなほどの暗い情念が俺の中に渦巻いている事などお前は知る由も無いだろう。
もし、知っていたのならお願いだからどうか見ない振りをしていて。




求めるくせに、手を伸ばす勇気の無い俺のことなどどうか捨て置いて欲しい。



    だって俺では仁王を知ることは出来ない。純粋だったはずの仁王への興味は俺自身が捻じ曲げてしまった。



受け入れて欲しくないといったら嘘になるけど、
この気持ちが受け入れられない事なんて自分が一番良く知っている。



    誰よりも仁王の近くへ行きたいけれど、こんな欲望の塊のような俺には仁王の近くに居る権利は無い。



だから、知らなかった振りをして欲しい。





    お前を求めるこの気持ちをお前自身に拒絶されてしまったら、きっと痛くて息も出来なくなってしまうから。

 
    こんな邪な思いのせいで、優しいお前が傷つくことでもあれば、きっと苦しくて動けなくなってしまうから。





俺の中に巣食うこの暗くいびつな感情に終止符を打てる日が来るのだろうかと
心の中で青空に一人静かに浮かぶ真昼の月に問いかけた。
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